えり漁業Fishery in Lake Biwa
写真は、昭和初期に現在の組合長の祖父(初代魞師・漁師)が漁をしているところです。魞に入った大漁のコイをたも網ですくっています。とても大型のコイです。
当時の魞は竹魞(たけえり)と呼ばれ、竹と藁でできていました。魞の構造は現代の魞と異なっていて、魚は垣網に沿って最終的にはツボに集まります。
写真のたも網は大きく曲がっていますが、当時のたも網は竹でできているため曲がりやすかったと考えられています。また、たも網の形は魞のツボの形に合わせて作られていました。当時の魞は3年程度しかもたなかったと言われています。
当時の漁業権の免状(明治9年)から、漁獲対象魚はコイ、フナ、ヒガイだったことがわかっています。
昔は、魞師(えりし)と漁師がいました。魞師は魞を建てることを専門とし、漁師は魚を獲ることを専門にしていました。写真は魞師です。
魞師は琵琶湖の風向き、潮の流れ、湖底の状態を考えて魞を建てていました。
魞が完成すると魞師から漁師に手渡され、家一軒分の資本が入っておりお披露目会が開かれていたそうです。
写真は昭和初期に当組合の近くを流れる熊野川の地先で魞が建てられたあとの様子です。この時は、守山から応援に駆け付けていました。
写真は、昭和初期に近くの主婦の女性が魞を組み立てている様子です。
当時の魞は竹、藁で作られており、木材の支柱に藁で竹を編んで作られていました。水中に立てる魞を横に倒して組み立てている状態です。
横に長い支柱は4~5m程度しかありませんので、岸に近い場所に設置され、沖出しはできませんでした。沿岸に寄ってくる魚を対象とした漁法です。
写真は漁師(一番奥)が観光客と一緒に琵琶湖を案内している様子です。琵琶湖を背景に写真撮影しています。
写真の観光客は京都から来られた富裕層です。よく見ると男性はスーツにネクタイを締めています。
屋形船で天ぷらを食べながら、大人はビール(キリンビール?)を、子供はジュースを飲んで楽しんでいました。天ぷらには、魞で獲れたコイやフナが使われていました。
当時の船は当然エンジンはついていませんので、木の棒(艪)で操船していました。
1枚目と2枚目の写真は、魚が最後に集まるツボと呼ばれる部分を揚げているところです。この時は、コアユと沢山のゴミが入っていました。
魞漁は、網やロープのメンテナンスが絶えず必要です。特に台風後の修理が大変で複数人で行うこともあります。
写真は漁師さんと大学生が共同で、魚の外来専用漁具(マス網)への出入り研究しています。魚が入る網の入口の形を変えて、魚が最も網から出ない形状を調べています(写真1枚目)。
魞では、魚に発信機を、魞の先端に受信機を取り付けて、魚が漁具に近づく時期や時間帯を調べました。得られたデータから、資源に負荷を与えない漁獲と適切な保全を進めるための対策をたてることができました(写真2枚目)。
魚に発信機を取り付ける研究は、ニゴロブナやビワマス等でも行ってきました。
琵琶湖で共同研究している近畿大学の学生と一緒に、琵琶湖の魚を使った商品開発や販売方法の検討も行ってきました。これからの世代の若者に、琵琶湖の恵を理解していただくことが、琵琶湖の未来につながります。これからも若い方々に受け入れてもらえるような商品を生み出していきます。
毎年、秋に開催される学園祭では、コアユのから揚げ、しじみの味噌汁、ビワマスの燻製(スモークビワマス)、ニゴイのカマボコ等、たくさんの食べ方を普及させてきました。商品はとても高評でいつも完売しています。
ニゴイとヒウオ(アユの稚魚)を使ったピザも試験的に作りました。ニゴイとヒウオはとてもたんぱくな魚なので、洋風メニューに合います。現在は、洋風のアユのオイル漬けを開発しています。
右の写真は、市場に出回らない雑魚をフードプロセッサーにかけて、練物にしてパン粉をつけています。油で揚げるととても美味しく食べることができます。学園祭では大人気でした。このように見た目や形が変わると不思議と消費が進みます。日々、試行錯誤の繰り返しで商品が出来上がってきます。